沖縄アイデンティティの歴史的変動とその事情

Gregory Smits
Text of Presentation, Okinawa Identity Symposium, Hōsei University, Tama Campus, March 9, 2004
http://aterui.i.hosei.ac.jp/cgi-bin/iv/ga-pr040214.html

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琉球・沖縄の時代区分を通して、アイデンティティに関する主な問題点とその歴史的環境を論じたいと思います。このトピックを取り扱いながら、各時代に、どの層のどいう琉球人や沖縄人が、当時のアイデンティティ問題をどのように意識していたかを考えてみたいと思います。つまり、琉球人か沖縄人という一貫した概念は、存在しなかったという立場から論じます。前近代の琉球列島住民の多くは、自分たちのアイデンティティを考えたことがあったかは、疑わしいと思います。琉球・沖縄のアイデンティティは、現在も、昔も、不安定なものです。このアイデンティティの性格は、各時代の事情によって変動しがちなものであり、社会や政治的な工夫として存在しています。ここでは、沖縄のアイデンティティが変わりやすいという性格をあげながら、いくつかの根本的なレトリック上の方法が、それぞれの時代に見られることを指摘したいと思います。特に大切なのは、政治のアジェンダを進めるために、「伝統」というものを作り上げるという工夫です。

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古琉球

まず、古琉球、特に十五世紀後半から千六百九年の薩摩による侵入までという期間を取り上げます。十五世紀の終わり頃には、尚真王が、例えば按司をみんな首里に定住させるなどの政策により、政権を中央に集中させました。その時、海外貿易が盛んになり、琉球の船がアジアを広く航海して商業を行い、琉球王国の黄金時代だとよく言われています。十六世紀中、この貿易による繁栄は、次第に衰えましたが、社会の基盤は、尚真の時から薩摩による侵入まで、ほぼ変わりなく続いていました。

古琉球に住んでいた平民の地理や文化や政権に関するアイデンティティ観を推測することは難しいです。かれらは、「琉球人だ」とか「沖縄人だ」というような意識をもっていたはずはありません。当時の平民にとっては、自分の村、広くとも間切くらいの地理的なアイデンティティ観を持ち、世界観は地元の宗教、自然環境、経済的な事情などからなったものでした。琉球列島住民の大多数にとって、自分たちは、「琉球人だ」という意識や考え方は、かれらの想像外のことです。琉球人としての意識を持つ者は、エリート階層に限られていました。

古琉球の高級エリートたちは、辞令書という当時の公的な任職文書を通して、国王から正式に官職に任命され、官吏の政権は、王権に依存するものでした。政治上あるいは文化的な単位、つまり特定の国土として琉球を意識していた者は、主にこういうエリートたちでした。ですから、古琉球の中期と後期には、事実上、琉球アイデンティティ、イコール王権と考えたらよいと思います。こいう意味で、琉球アイデンティティの基礎は王権のイデオロギーでした。

古琉球における王権のイデオロギーというものは言うまでもなく、多面的で複雑な現象であり、比嘉実氏、玉城正美氏、渡名喜明氏、知名定寛氏などの研究者が、それぞれの角度から王権の基礎と働きを明らかにしています。ここで、王権のイデオロギーを詳しくは論じませんが、主なポイントを簡単に述べます。王権のイデオロギーは、三つの流れからなったものでした。まず、真言仏教の大日如来に関する太陽信仰と本地垂迹という教義が日本から琉球に伝わりました。次に、この真言宗は、地元のおなり神信仰や若てだ思想をより複雑な体制に巻き込みました。第三の流れは中国からきた天の思想と国家儒教でした。尚真の時代には、このそれぞれの要素が結合され、中国の天子または日本の天皇のようなてだ子思想に基づいた王権がその結果でした。

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日本の真言仏教と中国の思想に比べて、てだ子思想の著しい違いは、聞得大君とほかの女性官吏が、王権を守る不可欠な役割を果たしていました。古琉球のてだ子思想は、こういう意味では、独特なイデオロギーだと言えます。しかし、てだ子思想が出来上がった理由は、他国に比べて、独特な王権の基礎を立てようという訳ではありません。それどころか、てだ子思想は、日本の天皇神話と真言宗、または中国の思想に類似していることによって、国王の威光を高めました。当時のてだ子思想は、国王と按司との政権的な距離を広げる役割を果たしました。

尚真王がてだ子思想を作りたてたのは、伝統を作る例として、興味深いと思います。近代・現代の民族国家的なアイデンティティを作り出すために、必要な手段は、その民族にまつわる独自の伝統を創造することです。たとえば、日本の場合、我々の先祖は、「和」を尊び、法律上の訴訟をせず、協調的な共同体に住んでいたという状況が、明治時代以降から、段々日本の「伝統」として言われて信じられるようになってきました。その長い伝統のルーツを強調するために、教科書などで聖徳太子を一例として挙げたりしました。尚真王の時代には、民族国家というような概念はありませんでした。しかし、以前から国王の力が「てだ」からなるものであり、国王はてだの子孫であるという主張は、政治上の目的を推進するために伝統を作り上げる方法でした。

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近世琉球

近世琉球を定義する出来事は、千六百九年の薩摩による侵略でした。それによって、琉球は幕藩体制に巻き込まれると共に、中国からの文化が琉球で、以前よりも盛んになりました。薩摩と幕府にとって琉球の価値は、主に琉球王朝と中国との関係でありました。軍事上に潜在的な脅威である清王朝の成立によって、幕府は、清国が琉球をきっかけに戦いを起こす可能性を防ぐために、琉球にかなりの独自性を与えました。しかし、事実上として、薩摩の支配下になってから、琉球の政治状況は一層複雑になり、琉球の国土としての存在は、一方に薩摩と幕藩体制の力、他方に清朝の力の均衡を保つことに依存しました。こいう新しい状態はもちろん、琉球のエリートたちのアイデンティティ観やアイデンティティ論の形に影響を与えました。

近世琉球の平民の中では、古琉球と相変わらず、琉球人であるというはっきりとした意識は、殆んど見られません。しかし、エリート階層には、琉球人としての意識をもち、そのアイデンティティ観が、日本の方に偏ったり、中国の方に偏ったりする傾向が見られます。例えば、為政者であった向象賢の場合、薩摩藩の行政政策をいくつか琉球で実行しようということだけでなく、琉球の士族が日本のエリート文化を勉強するように促していました。作家・劇作家であった平敷屋朝敏は、日本の文学を学び、日本文学のテーマを琉球という環境に入れ替えました。他方、詩人と外交官であった程順則は、中国の文化を琉球で普及しようとしました。さらに、蔡温は、朱子学を利用して、琉球の主体性を強調しました。

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蔡温の琉球アイデンティティ論は、特に微妙な色合いがあります。彼は薩摩の力を認めながら、中国から伝わった普遍性を主張した朱子学をもって、琉球人が自分の将来について責任を持つべきだと論じ、さらに、琉球は、道徳という尺度で、周りの大国と同じレベルに上達できるのだと述べていました。蔡温が作った『中山世譜』という王朝正史において、琉球の歴史を微妙に書き替えました。『中山世譜』で蔡温は、薩摩による琉球侵略などという琉球と薩摩の軍事上の関係を最小にしました。その代わりに、琉球と薩摩の関係を道徳的な見方で描きました。これは、尚真のてだ子思想と同じく、当時の政治のために、伝統を作る一例であると思います。十九世紀に入ると、蔡温の琉球中心のアイデンティティ論をもって拡張するような人物はいません。しかし多くの士族たちは、琉球は日本と中国のバランスをとる存在であるという琉球観を持っていました。

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琉球処分と旧慣温存時期

琉球処分のころに至ると、日本と中国は、琉球の二人の親と比喩されていました。琉球処分といわゆる旧慣温存期、つまり千八百七十年代から二十世紀の始まりまでは、琉球アイデンティティの激しい変動期でした。処分の直後、琉球の役人は、「節を守る」または「孤高を保つ」というような表現を使いながら、職務を果たさないなどの方法で、日本支配に対して消極的な抵抗をしました。こういう抵抗に対応して、明治政府は旧慣温存、つまりエリート階級に処分以前の特権を持たせるという政策を行いました。この政策と同時に、反日抵抗のリーダたちを厳しく鎮圧するという処置によって、千八百八十年代、県庁が沖縄全体を治めるようになっていきました。しかし、いわゆる「頑固党」と「黒党」の活動に反映されている反日感情は、まだ残っていました。日清戦争の時、奈良原知事の肝いりで、在沖本土の人たちは、「同盟議会」というボランティア自衛隊を形成しました。清国が戦争で敗れてからでも、頑固党や黒党は、政権をつかむ目的を止めず、千八百九十六年の「公同会」運動が、彼らの最後の企てでした。

「公同会」運動は、沖縄の特別な事情を理由として、県知事の変わりに、尚家の政権を復興しようとするキャンペーンでした。こういう頑固党と黒党の活動は、二つの特徴があると思います。その一つは、平民と関係なく、エリートたちの活動に限られていました。さらに、沖縄人であるという強い意識には基づかず、エリートたちの利害や特権が当時の反日活動の動機になりました。言い換えれば、琉球処分直後の反日活動は、民族自決主義などと無関係のものでした。沖縄人という意識は、以前よりも著しかったかもしれませんが、近代的民族アイデンティティに基づいたナショナリズムは、十九世紀沖縄において、殆んど存在しなかったと思います。

薩摩による琉球侵略は、普通の琉球人の生活様式には、殆んど影響しませんでした。それに比べ、琉球処分は、沖縄県民の生活とアイデンティティ観を改変させる基礎を造っていきました。旧慣温存策が実行されている間、平民の実情は、王国時代とあまり変わりありませんでしたが、主に学校教育によって、自分たちは日本人だという考え方が段々普及していきました。この日本人としての意識は、旧慣温存策を廃止するような要求を起こしました。特に、日清戦争が終わって、普通の沖縄人にとっても、伊波普猷のようなエリート階級以外のインテリにとっても、全国新聞にとっても、旧慣温存策は、時代錯誤に見えてきました。明治政府と沖縄県庁も、正式に旧慣温存策を止めた訳ではなかったけれども、二十世紀に入ると、「同化」つまり沖縄を他県と同じようにさせる政策が次第に著しくなっていきました。この同化策が、一世代内、沖縄人のアイデンティティ観を徹底的に変更しました。初めて、琉球列島住民の多くは、自分たちを日本人としてみなすようになりました。

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同化時期

この同化策の時期は、二十世紀の前半中にまだ続きます。この半世紀に、沖縄アイデンティティの特徴は、三つあります。まず、さきに述べましたように、アイデンティティという課題は、社会の隅々まで浸透してきました。さらに、沖縄の住民は、圧倒的に日本人というアイデンティティを意識して、身に付けるように努力をしました。しかし、「日本人」という具体的な意識は、必ずしも明白ではなく、確定したものではありませんでした。例えば、千九百四十年の沖縄方言論争は、なによりも日本人は、何であるかを定義しようとする討論でした。もう一つの同化時期に関する点は、経済的繁栄は文化によるものだという思い込みです。本土から来た役人なども、沖縄の人々の多くも、文化と物質的繁栄との必然の関係を信じていました。それ故、文化についての論争は、必ず政策、官公庁、生活レベル、教育、個人としてのアイデンティティが連結した形でなされました。三つ目の特徴として、何を「同化」するかというのに対して、主としてそれは文化になります。つまり、日本の文化を身に付けることが、多くの沖縄人の義務とみなされました。

本土での日本人アイデンティティ論を見ると、典型的な前提は、「単一民族、単一文化」という表現が示すように、日本は根本的には、一貫した文化圏であるから、国民は、共通の文化的遺産を分かち合います。さらに、この共有の文化という遺産を抱くという状態は、日本人であるという自然の理由からなるものであり、社会的・政治的な組み立てとは言えません。二十世紀前半には、この自然的な理由が直接に民族・人種・国民的性格・伝統・進化・進展・近代性などというような曖昧な概念へ導きました。そして、日本人を外国人と比較して定義するために、お定まりのレトリック的公式が出てきました。それは、「我々日本人は、近代化された進歩した国民であると同時に、深い伝統的な文化も保有する民族である」。つまり、日本と日本人は、アジアの立派な諸伝統遺産を保持し、同時に、西洋の近代技術も修得した、あるいは修得しつつある、それ故、日本と日本人は、他のアジア人や西洋人と違い、比類のないものである、この見方を「日本人理想像」とここで名づけたいと思います。

特に日清戦争後、上述のような日本人観を突きつけられた沖縄の人々にとっては、このレトリックに応える可能性は限られていました。日清戦争の勝利によって、沖縄県全体が日本の国境線内に存在し、中央政府の支配が続くということは確実だと沖縄の人々は、自覚しました。沖縄人は、本土人の目から「異なる」というレッテルを負わされていたので、自分たちが、琉球の文化的独特性を指摘したり強調したりすることは、役に立たないと分かりました。逆に沖縄の貧困、中央政府への依存という状態があるので、沖縄人は、自分たちと日本人理想像との相違点については、あまり取り扱わず、ただ違いを縮小したりするレトリック上のアプローチを使いました。具体的に言えば、日本人理想像に対して、伊波普猷や東恩納寛惇のようなインテリは、表面上の相違は少々あるけれども、琉球人は日本人と同じ起源を共有し、今でも昔でも日本人と本質的には、相違はない同胞であると主張しました。

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琉球人と日本人には、本質的には相違のない同胞であるという主張をもって、沖縄のインテリ・ジャーナリスト・政治家などは、法的な日本国境、と想像された国民国家の文化的な「国境」のギャップを切り崩そうと試みました。これは、琉球の言語は古代日本語の要素を保持し、琉球語と日本語は同族の言葉であるという主張です。この同族の言葉というのは、比較的に説得しやすい主張でしたが、実際の文化的相違は、どのように説明したらよいでしょうか。一般に、この文化的相違は薩摩のせいであるというアプローチを利用しました。何故なら、十七・八世紀中、藩政府の財政的意図で、薩摩は、琉球を中国化させる政策をとり、中国と間接的に貿易をするために、琉球を利用しました。この不自然な中国化政策によって、琉球の自然の文化的な進展が、阻止されました。千九百十四年に、東恩納寛惇が演説で、次のように述べています:

<前略> 斯ういふことでありまして、薩摩は幕府に対しても支那及其他の外国に対して、政策上琉球が日本化するのを妨げるのが利益であった。これは三百年間通じて少しも変わらなかった根本政策であります。此政策の為に明治政府はどれ丈け迷感をうけたので御座います。換言致しますれば、廃藩置県の際、支那との関係を絶たせる為めに、大変な手数を要したのでありますが、其の手数は三百年間の政治の困襲 <困窮?> が然らしめたのである、これ丈けのことをご承知を願ひたいのが私の本意で御座います。

この論に暗に示されたのは、もし近世期での琉球の「自然な」発展を許されたならば、近代の沖縄人は、日本人理想像にもっと類似していただろうということです。

このような説明は、歴史として事実的な流れを別にしても、レトリックとして説得力に欠けただろうと思います。近代化され進歩した日本人理想像+アジアの立派な伝統をも共有するという公式を考えると、東恩納のような主張は、せいぜい「伝統」の要素しか当てはまりません。しかし、「近代化」という要素については、薩摩による悲劇的な圧迫とその文化的歪みを理由に上げる以外は、当時の沖縄のインテリたちは、殆ど何も上げることはできませんでした。だから沖縄の悲劇的な事情に同情する本土人の目からでも、沖縄の人々は、正式な国民になる可能性を実現するために、少なくとも、沖縄が近代化、つまり日本化される必要がありました。さらに、この近代化を徹底的に行うためには、政府が積極的に沖縄社会を運営すべきだと、沖縄人の多くが思っていました。

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同化策というのは、主に教育によって、沖縄人を日本人理想像に類似させていく政策です。同化政策の前提は、もし沖縄の住民が本土の住民と同じような習慣や考え方を持つなら、それによって沖縄の経済的生活レベルが上がります。沖縄の貧困は、当時の社会と経済の構造的環境で十分に説明できると思います。たとえば、沖縄の経済全体は、砂糖産業に過度に依存し、世界中で、砂糖は、生産過剰であり、値段が下がったまま長く存続していたというのが、いわゆる「ソテツ地獄」の主な原因です。しかし、沖縄人も、本土人もこのような理由をあまり上げず、文化的な理由を強調する傾向がありました。つまり、沖縄の貧困は、沖縄の文化的欠陥によるものだという声が多くありました。この文化的欠陥の代表は、一般的にルーズなこと、酒を飲む男は、妻の労働だけによって生活するのに甘んじる怠け者であること、靴をはかない習慣、奇妙な音楽、などという例である。千九百十三年に、高橋知事は、第二番目の中学校の開校式で、女の人が帯を締めなかったり、下着をはかないことを、文化の遅れ、沖縄の不景気の関連理由の一つとして述べました。

こういう文化的な政治は、沖縄住民に苦労を与える役割を果たしていました。まず、日本の文化というのは同一、一貫したものではありませんでした。十九世紀には、言語、宗教、衣服、食物、社会的習慣などのさまざまな面で、日本列島各地の文化的多様性が存続していました。たとえば、鹿児島と東京の文化的相違は著しく、鹿児島県内でも、いわゆる「鹿児島弁」の中においての各方言が示すように、それぞれの地域がありました。日本列島全体、北海道から与那国まで見ると、琉球の諸文化は、日本列島の多様な文化の長い連続体の一端にありました。しかし、琉球列島は、日本の国境内に入ってきたのに、依然として、本土人の知覚的や心理的な「国境」以外に存在していました。沖縄の人々は、正式な国民国家のメンバーとして、本土人の多くからは見なされなかった、この状態が沖縄人にとっては、大きな問題になり、一貫した「日本文化」という神話は、沖縄人の生活を悪化する役割を果しました。そして、もちろん、沖縄での文化にこだわる傾向のせいで、実際の問題を見落とす結果を起こしました。

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米軍支配と復帰直後

沖縄戦の悲劇はよく知られています。日本軍の行動やいわゆる「集団自決」などによって、沖縄での皇民意識の根強さを示しながら、中央政府が、沖縄を犠牲にしたことも示しました。千八百八十年の分島条約案、つまり貿易権の変わりに、宮古と八重山が中国の領域になるという日本側が承諾した条約案、あるいは、沖縄を犠牲にした沖縄戦、あるいは、千九百九十七年の米軍用地得措法改正というようなことによって、今も昔も日本の中央政府は、沖縄を本土とは異なる特別な地域だとみなしていたことが分かります。しかし、千九百五十・六十年代の米軍支配下の沖縄から見たら、日本は、戦争を禁止する憲法を持ち、次第に経済大国になっていく、理想に見える国でした。この時期において、アイデンティティに纏わる要素は、いくつかありましたが、多分、日本の理想像が背景で何より大切な役割を果たしていたと思います。

「我が本土」や「我が祖国」という当時の流行の表現が指摘するように、米軍支配下の時期、同化の時期と同じく、琉球・沖縄は、大昔から日本の一部であったという見解が共通の考え方になりました。この常識になった考え方は、当時の政治的アジェンダを促進するために、いわゆる「伝統」を作り上げる一例だと言えるかもしれません。

現代

千九百八十年代に入り、日本の理想像はだいぶ衰えてきました。復帰してから十年が経っても、沖縄の平均収入は、まだ本土にくらべ、七十パーセントで、基地問題も相変わらず残っていました。つまり復帰をある程度、期待はずれと失望で見た沖縄人は、少なくはありませんでした。それと同時に、学問界ででも、大衆の間でも、琉球の日本との関係を否定した訳ではないですが、琉球中心あるいはアジアのメンバーとしての琉球の見方も、次第に著しくなってきました。たとえば、歴史家は、琉球と中国との諸関係あるいはアジアの中の琉球を強調し、王国時代についての漫画本さえも出てきました。

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千九百八十七年の知花昌一氏が日の丸を焼き棄てた事件、や千九百九十五年の米兵による強姦事件が基地問題の象徴になり、沖縄県と中央政府の緊張度がより高くなりました。それに関する面白い一点は、当時の政治的アジェンダ、つまり基地を廃止するために、再び伝統を作りました。このいわゆる伝統は、平和主義者としての琉球です。つまり琉球は、武器さえ持たなかった完全に平和な社会という主張です。この主張は、歴史的事実としては、正しいとは言えませんが、知花氏も、いくつかのウエブサイトも、この主張を唱えます。言い換えれば、沖縄の伝統的文化は、完全に平和な社会を支え、いまの沖縄は、この平和伝統を例として世界に提供するという貢献ができます。それと同時に、基地問題の悲劇的な面を強調する役割も果たします。

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最後に

武器を知らない古琉球、近世琉球も完全に平和な社会であったという考えは、歴史学の名で主張されているものですが、この場合は、歴史学はただ、飾り物として利用されています。こういう主張は、実際、現在進行する世の中の反映する、政治的なレトリックであり、このレトリックを分析することによって、現在のものの見方が分かります。たとえば、もし琉球は、かつて長い間、完全に平和な社会であったと言うならば、この平和な社会という有様が、琉球・沖縄の根本的な性格を反映し、今の沖縄人あるいは沖縄の民族がこのような平和な性格を先祖から受け継いだという結論をみちびきやすくするでしょう。さらに、なぜこの平和な状態が今、あまり見えないかという問いに対して、基地問題と日本からの圧迫のせいで、不自然で歪んだ社会を作り出したというような答えが可能です。もちろん、政治的なレトリックとしてこういう細かい説明は要りません。多くの場合は、ただ平和な社会であったということを歴史的事実のように装飾した主張だけで十分です。

このように、今も昔も、琉球・沖縄での政治的アジェンダを支えるために、過去の状態を操り、いわゆる伝統を作るという方法が、それぞれ沖縄のアイデンティティ論に繋っていました。こういう現象は、言うまでもなく、沖縄という場合には限りません。歴史あるいは歴史学は、アイデンティティ論を支える道具として使える可能性もありますし、アイデンティティ論自体を批判する可能性もあります。